中野さんと天都山

地元の人の言うことは、やっぱり完全にアテにしてはいけなかった。

天都山行きのバスに乗って、一番上にあるのが北方民族博物館、すぐ下がオホーツク流氷館、さらに下に網走監獄があるよ」
「北方民族博物館……から、網走監獄まで歩けますか」
「ほら、バスの時刻表を見るとそれぞれ数分ずつしか離れてないでしょ」

バスの時刻表には

北方民族博物館 発 9:45
オホーツク流氷館 9:47
博物館網走監獄 9:51

と、確かに記されている。2分と、4分。ふむ。

僕らは、ここでちょっと待てよ、と気づくべきだったのだ。北海道6日目にして、未だに東京感覚が抜けきっていなかった。最初の、北方民族博物館とオホーツク流氷館の間は、たしかに7分でたどり着いたのだ。だが、15分以上歩いた今、ちっとも先が見えてくる気配がない。いったいどれくらい、離れているのだろう。


車だけが脇をびゅんびゅんと通り過ぎる。思えばこの旅で、車だけはやたらと脇を通っていくけれど、歩いている人をろくろく見なかった気がする。

ただ幸いなのは、道がずっと下りだということだ。歩道がないので、縦に連なって歩き続けるしかない。一歩、一歩行くごとに、東京へ近づいているようで、僕は、何度も立ち止まった。カメラがあってよかった、と思う。「白樺を撮りたい」とか「ほら、変わった標識」とか、いくらでも言い訳ができるのだ。

歩き続けると、カーブの手前で真下から、かすかに曲のようなものが聞こえた

「あれ……監獄かな」
「施設っぽいものもちらっと見えましたね」

その、真下へ向かう林道があった。明らかに地元の人、わかっている人専用、観光客が踏み込んだらとんでもないことになりかねない、小さな道。僕は、その道に入りたくてしょうがなかった。遭難してしまえば、帰らなくていい。そんな考えすら頭に浮かんだ。
だけど、僕らは、大きなカーブを曲がって、歩き続けていた。今日、僕らは、僕は、東京へ帰る。今日を、明日や明後日に延ばしたところで。空と海がけして交わらないように、僕と中野さんを分けへだつものが変わるわけじゃあないんだ。わかってる。

「今日、飛行機に乗って帰るって、信じられません!」

僕だって信じられないし、信じたくない。この澄んだ大気を捨てて東京へ帰るなんて。中野さん、君との旅が終わるなんて。

「だけれど、帰らなくちゃ、旅は旅になれない」

僕の口から出た言葉は、気持ちとは全く違うものだった。

「家に帰るまでが、遠足、ですねー!」

僕の叔父は校長を務めていて、遊びに行った僕にもよくこの台詞を言ってくれた。

「そうだよ、中野さん。僕たちは、帰るんだ」
「お土産、買わないとですねー!」

ああ、彼女には待っている人がいる。ああ、今日で帰してあげなきゃ。

「網走監獄グッズとかいいんじゃないかなー」
「あ、先輩にいいかも」

彼女は最後まで、先輩と、同級生の友達と、先生と、軽音部のことを言い続けていた。

「お父さんとお母さんには?」
「なんか、お酒とか、お菓子でいいんじゃないでしょうか」

あと数時間後には、女満別空港を発つ飛行機の中だ。それが、現実だ。