乱丁のスキップ

今、私の中では北村薫ブームが到来している。今までも人に薦められて図書館で手に取ったり、よく公演を観に行く劇団で舞台化していたりもして、ずっともっとはやくに出会っていても不思議ではなかったけれど、それが、2009年の7月にようやくというのも何かの縁なのだろう。

最初に「ひとがた流し」を読んだ。たまたま本屋で文庫になったのがたくさん積んであったからである。
地の文が水のようによく身に入ってきて、お話が面白いというより、ただただいつまでも地の文を読んでいたいと思った。北村薫の好きな方にはお目こぼしを賜りたいのだが、他人の書いたお話のように感じられなかった。遠い先、十年か、二十年後の自分が、はいと書いたものを渡してくれたような気がした。故郷に近い土地で作られた、上等の酒。そんな読み心地。

その次に本屋の書棚にひと揃え残っていた「スキップ」「ターン」「リセット」をまとめて手に取った。待ちわびて、バスで早々に封を解く。最近の本屋はずっとがさりがさりとしたビニルの袋に入れて本をよこすけれど、最近、また薄い茶袋を使うようになってささやかに喜ばしい。

さいしょのページにふれた時、ん、と声ともつかぬ息が喉の奥でなった。象の皮膚をなでたかのような分厚さ。本を何度もひっくり返して、「新潮文庫 スキップ 北村 薫著 葡萄のマーク、新潮社版 6491」と書かれた1まいめを何回も指で繰る。指が不自然なほど滑らかになってしまったようで、いくらめくってもその厚みが取れない。感覚は異様だと告げている。でも、見た目にはただの文庫本の1枚目に過ぎない。

こんな妙な文庫本は気味が悪くて続きなど読む気になれない。中身などより、なぜ、そうなのかが知りたい。何度となくいじっているうちに、本の小口、ぱらりとめくれるほう、が、ぺり、と音を立てた。
小口をつまむと、二枚の紙の薄く重なったのが、1枚と誤解するほどに、密着している。

いわゆる文庫本は、背を糊で固め、小口、天、地、をきれいに裁断して、体裁を整える。
中の本文は、最初、印刷したものを袋綴じにされた状態である。袋側を背、糊付けされるほうに持って来るんだなと考えがちだが、実際は逆だ。めくられる小口の方が袋綴じ側。裁断されなければ、内側は読めないその、小口の裁断が、紙一重でずれていた。

裁断されていないわけではない、紙と紙の中に指を入れて、少し力をこめれば、ぱりぱり澄んだ音を立てて本来のページが生まれてくる。ただ、いささか読みづらいだけだ。それが、ずっと続いていた。

最初はなかなかうまくめくれない。整った音のよい地の文を頭で再生していくと、すぐに次のページをめくりたくなる。それが、ひっかかる。もどかしさを、テキストを反芻しながら、自分の指がめくるのを待つ。糊をはがすような、乾いた菓子を食むような、ぱりぱりの音が楽しみになる。
次第に普通の本のようにめくれるようになって、やがて、乱丁のことも忘れた。

読み終わってから、最初の百ページ分ほどの厚みを指で触っておさえてみる。ページの角の部分がわずかに不自然な厚み。自分で切った不細工な白身の刺身みたいだ。でも、すべてをめくりおえた小口はなめらかで、裁断されていなかったなんて嘘のようだ。地もするりとしている。
天をみて、あれ、と思った。えらくでこぼこしている。一定の紙の厚みごとに、ぼこぼこと整わぬ感じ。左肩のナンバリングだけ眺めてすばやくページをめくる。小さな通し番号が縦に揺れる。この本、天の裁断もちゃんとされなかったのかな、と、そのときは思った。

そのあと「ターン」を読み出して、ふと気がついた。この本までも乱丁ということはないけれど、やっぱり天がぼこぼこしている。本棚から数冊文庫本を引っ張り出しては、天を眺めてみた。少しぼこぼこしているもの、ぴしり、としているもの、古すぎて磨耗しているもの、いろいろだ。でも、「スキップ」や「ターン」ほどぼこぼこしている本はない。

そこまで考えてあっと思い当たった。
新潮社の文庫本には、しおり紐がついている。天を裁断したら、紐がなくなってしまう。
ふむん、と満足して、私は「ターン」にそのしおり紐をかけた。