中野さんと僕と5泊6日


中野さん、という女の子と知り合ったのは本当に変なきっかけだった。

ソプラニーノリコーダーという笛がある。ソプラノより一回り小さな、低いファから高い高いレまで出る、ちょっとだけマイナーな存在のリコーダー。小学校で使うのはソプラノ、中学になってアルト。だいたいそれでおしまいだ。ただ、僕はソプラニーノを練習しなくちゃいけないわけがあった。別に笛マニアとかリコーダー演奏とか、そういう趣味があるわけじゃあない。友人の結婚式だか、会社の忘年会だか、なんの余興か忘れたけど、なんだか4、5人でバンドをやることになり、誰かがギターを弾き、誰かが歌い、誰かが南米かどっかの太鼓を叩いくことになったとき、子供の頃ヤマハ音楽教室に通っていたことだけが取り柄の僕には、ソプラニーノリコーダーという役が回ってきたのだった。

ソプラニーノ自体は大きな町の楽器店に行けば売っている。普段乗らない路線の電車に乗って買い求めに行ったそれは、ガラスケースに陳列されてはいたが2000円かそこらの、懐かしいほどチープなプラスチック。アイボリーの吹口、焦げたブラウンのボディ。楽器店なんて何年も足を踏み入れていなかったから、そわそわとして店を出たところで、後ろから呼び止められた。

「お客様! あの、クライネソプラニーノをお求めではなかったですか!!」
「いや、あの、大丈夫です、これで」
「ソプラニーノでよろしかったですか!」

はい、よろしいです。よろしいです。

ただでさえ知らない土地で、よくわからない物ばかり売っている店で、心がざらざらしている時にこの仕打ちは辛かった。やったことがないけど、万引きした時ってこんな気持ちなのだろうか。いやどうだろう。もっとゲーム感覚というか無自覚なような……。

話が脱線した。やっとの思いで手に入れたソプラニーノ。築25年のアパートでそっと息を吹き込んでみると、耳をつんざく汽笛のような音がして、僕はぎょっとしてそれだけでもう吹く気持ちがどこかへ飛んでいってしまった。運指表、ガーゼをくくりつけて唾を拭くのに使う棒、それらと一緒に封印。こんな凶悪なもの家で鳴らせるはずがない。上下左右から苦情がきてしまう。仮に全く隣に音が漏れていなかったとしても、はっきりとした保証がない限り僕の心を強く乱して練習どころの騒ぎじゃない。

メールでソプラニーノの役割を押しつけた連中に相談してみると「学校に侵入しろ」「公園か土手で吹け、ドナドナを吹け」「エアリコーダー」「スタジオ入りしろ」など、まことフリーダムな意見の中に「カラオケ屋で大丈夫」という人間性を感じる返事があった。僕は人間性の回復を賭けてカラオケ屋で練習することにした。

金曜の夕方、スーツ姿のまま駅前のカラオケ屋でおそるおそるカウンターで「楽器の練習をしたい」と申し出ると、店員はこともなげに「うぃ」と短く音を発しただけで、僕を部屋へと導いた。問題ない。ということだろう。頼んだドリンクがくるまで楽譜をじっと睨み、彼が去ったのを確認してからおもむろにソプラニーノに息を吹き込んだ。ぴぃよ。ぴぃ、ぷひゃー。アルトリコーダー以来のバロック式の運指。指ならしにメリーさんの羊など吹いてみる。15年くらい吹いてなかったわりには、うまいと思う。僕は楽譜が読めたおかげで、学生時代音楽全般得意だった。担任教師がリコーダーに熱をあげていて、なぜかクラス総出で市のコンクールに出たこともあった。帰り道はドラゴンクエストファイナルファンタジーの曲を吹いては笑っていた。おお、僕は、できる。

だんだん楽しくなってきて、楽譜を見つめながらたどたどしく曲を覚えようとゆっくり吹き鳴らしていると、扉にはまったガラスのところに、ひょい、と人影が横切った。紺色の制服みたいだ。安普請の壁をソプラニーノの音色が突き刺しているから、近くの部屋の人間が覗きにきたのだろうか。プライバシーは守られないからこそ、みんな大切にしたがる。僕が暗い目でじっと窓を見つめていると、小さな紺色が戻ってきて、はっきりと僕の部屋を覗いた。制服と体が奇妙にちぐはぐな、小さな、女の子。長い髪の毛を高い位置で二つ結びにしている。中学生くらいだろうか。

ガラスごしに僕と目があったのに気づいた彼女は、頬を紅潮させた後、ぺこりと黙礼して廊下を走っていった。ぱたぱた、という音が聞こえそうな走りっぷりであった。

その、中学生みたいな彼女が、中野さんだった。

それから、どうやって僕と中野さんが知り合い、メールをしたり本を貸したりするような間柄になったかは割愛する。あまり大事なことではないからだ。

ある日、中野さんからメールがきた。彼女のメールは顔文字がほとんどなく、絵文字が控えめに添えられている。

ようは、僕が以前話した秋の連休の北海道旅行に、一緒にいきたいというものであった。確かに冗談混じりに、行ってみたい?と聞いたことはある。だけどそれは社交辞令のようなものであって、忙しい高校生の(彼女は驚いたことに高校生だった)彼女が5連休+平日1日、計5泊6日もの間、北海道に来れるはずもないと思っていた。聞けば、ちょうど試験が終わって秋休みの時期で、24、25日はもともと学校が休みになるのだという。

彼氏がいないのは知っていた。けれど、部活動を熱心にやっている彼女が、その貴重な休みをだらだらとした、旅行に費やすなんて。

今回、僕が企画している旅行は「北海道&東日本パス」という、普通列車に限り5日間乗り放題になるフリーパスをつかって毎日鈍行に何時間も乗って好きなバンドの北海道ツアーを追っかけるという、どこからどうみても、大凡女の子の喜ぶようなものではない。列車に乗り、文章を書いたり、好きな音楽を聴いたり、知らない風景を見たり、そういう、うすらぼんやりとした旅なのだと説明したとき。彼女がふと「先輩みたい」とつぶやいた。

中野さんの先輩の一人は、電車に乗って遠くの海で詩を書いたりする、とても「素敵な」「あこがれの」人なんだそうだ。ベースがうまくて、ボーカルもこなせて、作詞もたまらなく可愛いく、しっかりもの。どんな完璧超人なんだ。もっとも彼女が語る「先輩」たちの話はどれもこれも面白く少し現実離れさえしていて、彼女がその先輩たちを全員敬愛していることがよく伝わってくる。

そんな、憧れの先輩みたいな経験、ひらたく言えば真似がしてみたい。でも、一人でどこか行くのもまだこわい。そうした気持ちが、僕と一緒に行きたいと言わせたようだった。

僕は、最初断ろうかと思った。

僕はグループ旅行というものが苦手だ。ふいに目に留まったささやかな、くだらないものをじっくりみたいし、自分のペースで歩きたい。ご馳走を食べたいときもあれば、コンビニのパンで済ましたい時もある。知らない土地に刺激されて自分の心にたくさん言葉が溢れてくるときに誰かに話しかけられるのは苦痛だ。僕は、自分のエゴのために断ろうと思った。

彼女は、僕の表情を読んで必死にしゃべり続けた。

迷惑はかけないし、荷物も自分で全部持つし、好き嫌いも我慢するし、云々。

僕は、前々から、中野さんの持つ空気の本質的な部分に好感を持っていた。

猫のような。密やかな。近いのに他人を嫌な気持ちにさせない。

向かい合ってお茶を飲んでいて、僕がぼんやりとしゃべらずにいるとき、一緒にぼんやりできる女の子。映画を見る時、隣の座席にいても気配のない女の子。

この子となら、旅を楽しくすることはあっても、旅を損ねることはないだろう。

そんな予感が身の内に湧いてきた。

僕は彼女にいくつかの条件を伝えた。

ご両親に許可をとること。金銭や荷物に関して全部自分のことは自分でやること。僕はたまに気ままにふるまうけど、中野さんもまた僕に遠慮しないこと。でも、好意まで遠慮しないこと。

彼女はそれらの言葉をひとつひとつメモにとり、わかりました! と大きくうなずいた。

昨日は最終の打ち合わせを兼ねて簡単な買い物をした。

今日はこれから羽田空港で落ち合うことになっている。

どんな、6日間になるのだろうか。