なつかしい機械

会社の上司が、突如として「ポメラって知ってる!?」と、私の背後の席で叫んだのはつい先週のことだ。今更なにを、という気もしたが、ネットに興味のない人ゆえ、テレビCMで初めて知ったらしい。

興味を持った上司氏は、ネットで改めて調べて、ポメラに取り付かれたらしく、朝のオフィスでポメラの魅力を喧伝する。
それを聞いて、私は自分がポメラが欲しかったことを、思い出した。欲しい、という気持ちを封じていたことも。
理由は罪悪感。



私があなたに差し出すだろうtwitter名刺には「いじきたないちびの同人ノベル屋」とある。言うまでもなく「いさましいちびのトースター」をもじったものであり、同人誌を作ることを趣味だか生業だかなんだかよくわからないが、そうしたことをものしている。

だから、どこででも文章が打てる、それに特化したというポメラは、最初から注目していて、発売日に買ったっていいと思っていた。


だけど、6月2日の今日になるまで買わなかったのは、昨年の1月に工人舎ネットブック(という言い方はあの頃まだ、あまり聞かなかったけれど)SA5Fを購入していたからだ。SA5Fを購入した意図もまた、出かけた先どこででも、快適に文章が打てるツールであることを期待してのことである。

ヨドバシカメラの片隅で、キーボードをあんなに入念に叩いて選んだはずのSA5Fは、実戦に投入してみると存外に打ちにくかった。それでも意地になって短編は書き上げてみたが、しっくりこないものはしょうがない。旅先でなどずいぶん活躍してくれたものの、次第に毎日、そのたった1キロ弱を持つのがつらくなって持ち歩かなくなった。重かったのはあるいは、相性が合わなかった、という事実かもしれない。

あの小さくて黒い愛らしい機械を存分に使いこなせなかった罪悪感。ポメラも二の舞にしてしまうかもしれない、という怖れ。それが、ポメラを買おうとする気持ちを塞いだ。



最近、有り体に言えば書き物のスランプに陥っている。スランプ自体は珍しいことではないが、自分の足の裏から砂と化して、さらさらとどこかへ流れでていくような焦燥にはいつまでも慣れることはない。自分の目線がみるみる低くなっていって、手を伸ばしてもどこへももう届かなくなっていく。


そんなある日、背中から「ポメラ」という言葉が聞こえてきた。たぶん、きっかけになりそうな蜘蛛の糸なら、なんでも良かったんだと思う。その言葉を皮切りに、ポメラほしいほしいほしい、と熱が再燃してきてamazonをみたりレビューを読んだり。ついに上司氏も買ったという。会社の昼休みに携帯電話でamazonの中を行ったり来たり。でも、このままポチっとやってしまうほどの踏ん切りもつかなくて、非常階段から電話をかけた。相手は生計を一にする人物、すなわち夫である。



「相談にのってください」
「なに」
ポメラがほしいのですが、踏ん切りがつきません。なぜなら、工人舎ノート先生を活用できなかったことに、今でも罪悪感があるし、ポメラももし合わなかったらどうしよう、それが買う前にわからなかったらどうしよう、と思っているのです」
「んー・・・いいんじゃないの、買えば。道具ってそういうもんだよ」



合うも合わないも、ある程度使ってみなければわからないものでしょう、とわかった風な口を聞く男に、私は珍しく感銘を受けた。前に感銘を受けたのは自転車のパンクを直した時である。男は、時としてえらい。



仕事を早々に切り上げて、電車を乗り継いでヨドバシカメラまで出かけた。ノートパソコン売場にうっかり行ってしまったけれど、よく考えたらそんなはずもない。電子辞書売場で在処を尋ねると、よくぞ聞いた、といわんばかりに店員さんが案内してくれた。

小さく畳まれていた白いポメラが、私の目の前でさっと開かれた。電源を2秒、長押し。目の前で、液晶が黒く点る。想像していたより小さい。実寸が文庫本と変わらない、なんてのはレビューでさんざん目にしていたけれど、本に感じる小ささよりも、さらにもっと可憐な小ささ。店員さんはどうぞごゆっくり、とでも言うようにと私を残して去っていった。

陳列ディスプレイの最上段に据えられたポメラに見合うよう、背伸びしてキーをそっと打つ。カチカチとした手応え。バックスペースの位置がぴったりと合う。スペースも左手派の私には良い位置だ。ctrl+tなどショートカットのくせも対応している。打ちかけを閉じる。かちり、とふたがしまる。開く、かちり。閉じる、かちり。メカニカルで確かな手応え。頼もしい。液晶はくっきりと読みやすい。


開いた瞬間、ダメだ、これは買ってしまう、とわかった。言いようのない懐かしさがあった。ポメラのうしろに、かつて苦楽をともにした僚機たちがいた。書院。PC-9801nv。PC-386NOTA。モノクロ液晶の思い出。「おかえり」と、言われたような気がした。


色はさんざん悩んだあげく、やっぱりかつて使った機械たちに少しでも似る方が良いかと思い、黒をえらんだ。amazonの方がやすいのは知っていたけど、すぐ持ち帰って頭の中に渦巻いているものを打ち込みたかった。帰りの電車で、単四電池を入れるのももどかしく、電源を入れた。デフォルトの設定がぴったりと身体に合う。気持ち良いほど、打てる。こんな気持ちで、無心であふれる言葉をキーボードにそのまま移しかえたのはどれほど久しぶりだったろうか。

そうして出来上がったのが、このテキストだ。



工人舎のSA5Fは、また旅行の折りにでも使おうと思っていたところ、今までほとんど興味を示さなかった夫が使ってもいいかと聞く。何をするのか横目に眺めていたら、ペンタブレットを繋いで、ペイントソフトを入れて、絵を描き始めた。器用なもので小さな画面にさかさかと描き進めていく。

「なんでPhotoshop様完備24インチビック液晶のYouのパソコンで描かないかね」
「だらだら落描きしたいときもあるんだよ」



誰にも、なんにも、罪悪感を持たなくてもよかったのかもしれない。


これからよろしく。どの機械も、みな、すべて。