ひかりのみせ

子供の頃、家の近くにあった店は皆、薄暗かった。
入口から奥に行くにつれてガラクタや工具や部品が増えていき、足の踏み場のなさで作られた三角形の頂点にちょこんと爺ちゃんのいる自転車屋。いつまでたっても、昭和59年版ゴジラとタイアップしたプッチンプリンのポップを飾っている魚屋。おつかいを頼まれるたび「あの店で買ってはダメ」と念を押される八百屋。商店街なんて気の利いたものは町まで行かねばなく、バス通りに、ぽつり、ぽつりとそれらの薄暗い店はあるのだった。


バスの転回所のところにある雑貨屋で、私は外国のコインを模したチョコレートがいたく欲しくなり、珍しくねだった。母は珍しく、強く、拒否した。しかし、私の我侭が打ち勝った。家に持ち帰り、その金紙をはがすと、中から土のようなものがぼろぼろこぼれた。よくよく見ると、その中にはシロアリのような虫の死骸がたくさん混ざっていた。母はぎゃっと小さく叫んだあと、だからイヤだと言ったのに、と私を責めるとも哀れむともつかぬような目で見た。食い意地の汚い私は、店に言って取り替えてもらおうと強く言ったが、あの店にある限り、何回換えてもらっても無駄だと取り合ってもらえなかった。
なぜ、あの店にある限りダメなのか、私にはわからなかった。
あの頃は、まだ薄暗い店しか知らなかったから。


ある日、小学校の同級生の家が、農家をやめてコンビニエンスストアに商売を変えるという。遠い商店街にもない、セブンイレブンという店になるのだそうだと、周囲の大人たちが噂していた。開店のチラシにあった「50円引き」のクーポンを大切に切り取って出かけていくと、そこは昼だというのに、光り輝いていた。
床が白くて、つるつるしている。
棚はひとつとして埃っぽくない。
電球が切れてないし、点滅もしていない。商店街のスーパーは明かりがどこかうすぼんやりとしているのだが、セブンイレブンの照明はぱりっとしていた。
小さな商店なのに、物がぎゅっと詰まっていた。
店員さんはおそろいのあざやかな赤い上着。同級生のお母さんも、恥ずかしそうにそれを着て笑っていた。

花輪がたくさん飾られて、人がたくさん集まって、お祭りみたいにはしゃいでいた。風船も配られていた。
バス通りからは遠く離れた国道沿いだというのに、あちらこちらから、それこそ隣の学区からも人が押し寄せてきていて、知らない顔の小学生もたくさんいた。

同級生の家は店舗の上に住居を構えた、最近あまり見かけないタイプの店舗だった。店の脇の階段を上って入るのは、とてもわくわくした。真新しい、大人が建てた秘密基地みたいで羨ましかった。部屋の中で遊んでいる時も、ぼんやりと今、ここの床の下はあの光る店なのだな、と思うと妙にそわそわした。

牛歩戦術だなんだの後、消費税というものが導入された時、同級生のお母さんが1円玉がないだろうか、と家にやってきた。おつりの1円が全国的に不足していたのだ。貯金箱にあった1円をかき集めて渡すと、とても喜んでくれた。でも、その顔がすごく疲れていて、大人たちが「ショウバイハタイヘンダヨ」って、こういうことなのか、と、思った。


ひかりのみせ、はあちこちに少しずつ増えていった。ローソン、サンクス、ファミリーマート
私の行動範囲も年齢が上がるとともに広がっていって、駅前のお店なんていうのはみんなピカピカしていて、薄暗い店は、田んぼと国道とバス通りしかない辺り、すなわち田舎、にしかないのだと知るようになった。

同級生とは中学生になった頃から疎遠になり、そのセブンイレブンも、いつしか足が遠のいていった。私の行動範囲に別のコンビニが出来たというのもあるけれど、何より、いつ見てもレジにいる同級生のお母さんは、私の顔を覚えていて、ずっと私のことを「娘のおともだち」として扱ってくれるのが、辛かったのだ。

数年後、人づてに、その店は閉店になったと聞いた。その、同級生のお母さんが体を壊してしまったらしい。

今、そこになにがあるかも知らない。ただ、きらきらしたひかりがひとつ、消えたのだと思う。