ストーリー・セラーと耳鳴り

ひどい耳鳴りはイヤなものだ。 今、聞いている音は現実なのか幻なのかいちいち吟味してしまう。
テレビの音は外界から鳴っているはずだ。しかし、実は幻聴なのでは? この高い響きは、実は世界中で鳴り響いているのでは?

病院の帰り、ストーリー・セラーという読み切り短編の書き下ろしだけを集めた、小説新潮の別冊が気になり買った。
書いている人はいわゆる本読みの人がすごく褒めるタイプの人気作家、 けれど私はなんかピンとこなくて読んだことない、みたいな人がずらり。 どれも面白いと思う。読んだ手ごたえ感が手ごろにあって、雑誌だからすごくお値ごろで。
でも、この人たちの単行本がほしいかと問われると、多分いらないと答える。
面白いんだけど、震えない。手ごたえはあって、ページをめくるのが楽しいけど、ニヤリとはしない。 来たぞ、という喜びもない。
読み終えるとその世界が水で流したようにざっと過ぎてしまう。

エンターテイメントなのだから、それでいいのだと思う。
私が小説、物語に求めるものが違うのかもしれない。
子供のころは、本の存在が救いで、一番楽しいことは本を読むことだった。本だけが、天にも上がる気持ちにも、地獄に突き落とされた気持ちにも、ありとあらゆる気持ちにしてくれた。心の中に楔や痕をどこかに残していった。
だからか、大人になった今でも気持ちに打ち込まれるかけらを、物語に求めてしまう。

私自身の問題なのかもしれない。感性が磨耗したとか、贅沢になったとか。
この間、子供の頃に愛読した戸川幸夫を読み直した。
20年前と同じように、もしかしたらそれ以上にかっちょええー! と思った。
まだ動くと思いたい。それとも追体験にひたっているだけか。

それこそ、耳鳴りの音のように現実か幻か、私には判断できない